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「コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会(RGN)」第1回に行ってきた


■国際大学GLOCOMで4月9日に行われた「コンピュータ・ゲームのデザインと物語についての研究会(RGN)」の発表を聴いてきました。RGNはゲームのデザインとゲームの物語について、どちらかだけではなく統括的に議論するための研究会で、「Critique of Games」の井上明人(id:hiyokoya)さんを中心に立ち上げられています。井上さんは今GLOCOMの東浩紀研究室でスタッフとして働いてらっしゃるんですね、知りませんでした。

今回は第1回ということで、発起人の井上さんから「死の表現をめぐって」という発表があり、それに関して研究会メンバー(茂内克彦・濱野智史・増田泰子・hally)のコメントとディスカッションが行われるという内容でした。おそらく発表や議論の詳しい内容についてはのちのち公開されるものと思うので(とはいえised@glocomのような形でまとめる予定は今のところないそうですが)、僕が理解した限りでのまとめとメモを書いておきます。





■井上さんの発表「ゲーム表現の根本問題 ―死の表現をめぐって―」は、大塚英志氏が「キャラクター小説の作り方」(講談社現代新書)で言及した「ゲームの表現は『死』を扱うこと(死を記号的にしか扱えないという限界)に自覚的ではない」という批判に対して、現在までのゲームがじっさいに「死」をどう扱い、それがどの程度自覚的なのかを検証するというもの。要点としては「ゲームの死は二側面(ルールの中で単位として交換される「複数性の死」と、物語で扱われる個別のキャラクターの「固有性の死」)が観察できる」「この二側面はゲームの中で両立可能であり、この二項を操作することでゲームにおける『死』が成り立っている。その意味で、従来のメディア表現の水準ではとらえきれない」という二点。

まずここで、大塚英志の指摘がミスリードされているように思いました。「記号的な死」は、物語のなかで個別に扱われれば避けられるといったものでは決してない、なぜならば「死を記号的に扱う」ようなリアリティそのものが、まんがやアニメやミステリやRPGの物語を生み出し消費してきたのだからだ、というのが、大塚さんの主張のはずです。なので、ゲームの死の二側面を挙げるとして「固有性の死」の側に大塚英志の主張を当てはめるというのは図式として間違っています。ゲームの死が複数であれ単数であれ、従来のメディア表現でとらえきれないものであれ、大塚英志に言わせれば「記号的」でしょう。

いっぽう、ゲームにおける死はその複数性(ルール)や固有性(物語)そのものではなく、その二つのレベルの(ゲーム作者による)操作と対比において、そのリアリティ(あるいはそこにある限界)が浮かび上がるものである、という主張は十分可能だろうとも思えました。ゲームはプレイヤーに、ある立場を与え実際に手を下させることができ、そのプレイヤー自身の体験は覆せないとすれば、ルールや物語のレベルでは隠蔽されてしまう、たとえば「死」を、プレイヤー自身の体験によって担保する形式というのはゲームにはありえるのではないでしょうか。井上さんが発表で例示された(詳細は伏せる)「いままでプレイヤーが『倒した(殺した)』と考えていたものにある時点でプレイヤー自身がなり代わり、まったく同じルールで倒されて(死んで)しまう」というような表現は、ゲームが原理上死を記号的に扱わざるを得ないという限界に拮抗するものになりえるはずだと僕は考えます。このようなプレイヤーの役割を組み込んだゲームの構造を抽出できれば、濱野さんがコメントで指摘したようなプレイヤーの体験の差異によって解釈が異なる「島宇宙化」による論点の拡散も防げそうです。

あるいは、また別の主張も可能かもしれません。hallyさんもコメントで指摘していたとおり、たとえばWizardryの「ロスト」がごっこあそび的な記号の死だ、と言われたら納得できないプレイヤーは多いでしょう。なぜならそこには、プレイヤー自身の積み重ねた時間であり記憶である「肉体としてのデータ」が、あまりに理不尽に、乱数的に、劇的でないまま、しかし永遠永劫消滅するという意味で、現実の死とまったく同じ事態があるからです。これは、おそらく大塚英志が多く参照してるであろうTRPGでは起こりえない、コンピュータゲームのみに起こりうる「事故死」なのではないでしょうか(もちろんTRPGにもサイコロなどの乱数で決定的な事態が起きることはありえますが、その決定ではルール上の死が訪れるだけで「現実」にはなにも消滅しないので、理不尽な「事故」とは言いがたいでしょう)。これはこれで、ゲームにおける「死」の特異性を議論できる土台になりうると考えます。



ほかにもいろいろありますが、追ってまた書こうかと。なにはともあれこういうアカデミックな文脈を作る意思のある、しかも開かれた研究会があるのはすばらしいと思いました。懇親会などで井上さん(や東さん)に聞いたところによれば、RGNを発足したもっとも直接的な要因は、韓国のゲーム研究の着実な定着ぶりへの危機感があったそうで、そのためにともかく場を作る必要があるだろうとかなり強引に短期間で立ち上げたという話でした。その意味で今後研究会の形式そのものも変わる可能性がありそうですが、ともかく毎月ペースで1年ほどは続ける予定とのこと。今後も期待していきたいと思います。

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